弁護士の事件簿・コラム
冤罪への賠償を求めて
弁護士 野呂 芳子
1 ある日突然「犯罪者」に
私の依頼者である20代の男性Aさんは、平成20年6月29日夕刻、地下鉄白金高輪駅エスカレーター上において、携帯電話でアニメ画像を見ていたところ、突然、前方にいた女性から怒鳴られ、身体を押さえつけられ、駅員を呼ばれ、駅事務室を経て、高輪警察署に任意同行されました。
Aさんは、警察署において、初めて自己が盗撮嫌疑を受けていることに気づき、「やっていません。」と否認したものの、警察官は聞く耳を持たず、Aさんは、同日中に、犯行を認める上申書や自白調書などを作成されました。
Aさんは、検察庁に呼ばれた際も、盗撮嫌疑を否認したものの、やはり自白調書を作成されました。
その後、Aさんは、平成20年9月12日に、「スカート内に携帯を差し入れた」という「卑わい行為」を内容として条例違反で起訴され、第一審の東京簡裁においても、一貫して無実を主張したものの、平成21年3月30日に有罪判決を言い渡されました。
2 私とAさんの出会い
私は、Aさんが第一審で有罪判決を受けたあとの平成21年6月頃、Aさんの主治医である精神科医から、「何とか控訴審で力になってあげてほしい。」ということで、Aさんを紹介されました。
実は、Aさんは、第一審判決後に、「アスペルガー障害」との診断を受けており、その診断をした主治医が、私と長年交流があったことから、Aさんを紹介されたのでした。
私は、Aさんの紹介を受けたものの、当初は、正直なところ「難しいのでは。」と悩んでいました。痴漢等で冤罪を争った事件は世間に多々あるものの、無罪が認められた事例の多くは、捜査段階から一貫して無罪を主張しているのに対し、Aさんは、警察・検察双方で自白調書を作っているとのことで、これを覆すのは容易ではないことをわかっていたからです。ただ、その一方で、刑事記録を読み込んだ私は、捜査・有罪判決双方のあまりの杜撰な内容に驚愕し、Aさんの無罪を確信し、「精一杯の弁護をしよう。」という決意を固めました。
その後、横浜弁護士会で信頼出来るベテラン男性のT弁護士に応援を頼み、2人の弁護人体制で、控訴審に挑みました。
3 東京高裁の控訴審での無罪まで
この事件の特徴は、Aさんを取り押さえた女性・周囲の乗降客など誰1人、Aさんが、スカート内に携帯電話を差し入れたところを見た者はなく、また、Aさんの携帯に盗撮画面なども一切残っていなかったという、人証も、物証もない事件であったということです。
このように、客観証拠のない事件で、しかも、Aさんが否認していたに関わらず、警察・検察は、Aさんの言い分に全く耳を傾けず、自白調書を作成しました。
控訴審で、私とT弁護士は、これら自白調書の内容のおかしさなどを縷々指摘すると共に、Aさんのアスペルガー障害の内容、その障害が自白に結びついた経緯、Aさんの障害の内容からしてこのような犯行は不可能であることなどを主張しました。
控訴審の東京高裁の3人の裁判官は、第1回公判前から、私同様、やはりこの事件に疑問をもってくださっていたようでした。
Aさんの尋問では、裁判官3人が3人とも積極的にAさんへの尋問を行うなど、手応えも感じられた中、平成22年1月26日、東京高裁は、警察での自白調書、検察での自白調書を検討し、①双方の自白調書の間に供述の変遷が見られ、その変遷の理由が全く見あたらない、②自白には無視できない不自然・不合理な点が多々存すると指摘し、それは「捜査官に誘導されるままに供述したり、あるいは、捜査官が足らないところを作文するなどしたためではないかとの疑いが払拭できない。」とまで述べ、Aさんについて無罪を言い渡してくださったのです。
4 国家賠償訴訟の提起
Aさんは、アスペルガー障害を有しているがために、突然降りかかった嫌疑と取調に、通常の方以上に大きく混乱し、自己を守る術を持ちませんでした。このような障害を持つ方々についての捜査機関の無知・無配慮も当然問題視されるべきことです。
ただ、本件の根本的な問題は、捜査・司法界双方に見られる、相も変わらぬ「自白偏重」の姿勢にあります。本件のように、「自白さえあればどんな自白でもいい。」「自白さえあれば有罪」といわんばかりの「自白偏重」は、残念ながら、まだまだ根強いのです。
このような「自白偏重」が改まらない限り、Aさんのような障害を有さない方であっても、冤罪に巻き込まれる可能性は十分にあります。Aさんの場合は、障害を有していたがために、問題が一層顕著であったというに過ぎません。
このような問題意識から、Aさんと私達弁護人は、平成22年7月14日、違法な捜査と公訴提起についての賠償を求め、東京都と国を被告として、国家賠償訴訟を提起しました。
5 国家賠償の判決、そして東京高裁へ
横浜地方裁判所は、約2年あまりの審理を経て、平成24年10月12日、警視庁の違法捜査を認め、東京都に110万円の賠償を認める判決を出してくださいました。
ただ、弁護士としては、検察庁の捜査のほうがより違法性が明らかで、かつ大きいと考えていたにもかかわらず、検察庁の捜査及び公訴提起の違法性は認められませんでした。
私達は、こうした点等を不服として、東京高裁に控訴し、一方、賠償を命じられた東京都も控訴しましたので、年明けから、国家賠償の控訴審が東京高裁で始まることになっています。
6 私達の思い
Aさんとその家族、また私、T弁護士及び国家賠償から加わってくれたW弁護士で構成している弁護団の思いはひとつです。
それは、「冤罪を繰り返してはならない。」ということです。
冤罪は、人の人生を破壊します。Aさんとその家族は、事件日から無罪判決確定まで、1年8ヶ月に亘り、苦しみ続けました。無罪判決が確定した今もなお、取り戻せないものは多々あります。
つい最近も、いわゆるパソコン遠隔操作ウイルス事件で、4人もの無辜の方が誤認逮捕され、中には自白し、既に処分まで受けた少年もいました。痛ましい限りです。
冤罪は、けして、過去のことでも、他人事でもないのです。
捜査に携わる方々には、どうか、Aさんを始め冤罪を被った方々の苦しみ、冤罪の恐ろしさ、捜査という仕事の重みを今一度十分にかみしめていただきたい。
その思いを込めて、私達は、控訴審に臨んでいきます。
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