弁護士の事件簿・コラム

国家賠償訴訟のご報告 そして刑事弁護について

弁護士 野呂 芳子

1 国賠訴訟の結果のご報告
 丁度1年前、このホームページに「冤罪への賠償を求めて」というコラムを書き、私が携わっていた冤罪事件の国家賠償請求訴訟についてご紹介させていただきました。
 平成24年の10月12日に、横浜地裁で、警視庁高輪警察署の違法捜査を認めて東京都に110万円の賠償を命じる判決をいただき、請求を一部棄却された私達原告側と、110万円の賠償を命じられた東京都の双方が控訴し、平成25年の年明けから東京高裁で控訴審の審理が始まる、というところでのコラム執筆でした。
  約1年の審理を経て、平成25年12月17日、東京高裁も、一審同様、警視庁の違法捜査を認め、東京都に110万円の賠償を命じ、平成26年年明け、東京都から私に、「もう上告はしません。」という電話が入り、判決は確定しました。
  もともとの「事件」が起きたのは平成20年6月29日。何もしていないのに「卑わい行為をした。」として条例違反で起訴され、第1審で有罪判決を下され冤罪をきせられたAさん(20代男性)に、東京高裁が逆転無罪判決を言い渡したのは平成22年1月26日。その後国家賠償訴訟でしたから、結局5年半以上、Aさんにとっては長い長い日々であったと思います。

2 この国賠訴訟の意義その1(主にAさんに取っての意義)
 有罪率99.9%と言われてきた日本の刑事裁判で、無罪判決を取ること自体、非常に難しいことです。
 また、無罪判決をとったからといって、国家賠償請求で必ず賠償が認められるわけでもありません。なぜなら、国家賠償を認めてもらうには、「刑事事件で無罪」という結果からではなく、「捜査や起訴の時点で、警察や検察に違法があった。」ということをこちらが立証(証明)しなければいけないので、刑事事件とはまた別個のハードルを課されることになるからです。このため、無罪判決をとっても、国家賠償では敗訴ということが多いのです。
 そんな中、1審の横浜地裁、控訴審の東京高裁ともに、警視庁の違法捜査を認めて賠償を命じたのは、大変意義が大きいことだと思います。
 特に東京高裁は、当日のいきさつについては、ほぼAさんの主張どおりに認定し、Aさんが犯罪を行ったことも明確に否定し、Aさんが警察で作成した自白調書は警察官の創作、やはり警察で作成した、犯行を認める上申書は、「警察官が内容を指示して、何度もAさんに書き直しを重ねさせたうえでに完成させたもの。」と、Aさんの主張をそのまま認めてくださいました。
 取り調べというのは、密室で行われるものであり、いくら「警察官に作られてしまったのだ。逆らえなかったのだ。」と後で叫んでも、警察官が「そんなことはありません。」と言えば、「警察官に作られてしまった。」ことを証明する有効な手だてはありません。
 数年前、取り調べの状況をこっそり録音した被疑者により警察官の不適切な言動が証明された事例があったと記憶していますが、本件では、そのようなものは当然ありませんでした。
 そのような密室での取り調べにつき、東京高裁はAさんの言い分を認め、判決には、何度も「(警察官の)創作、創作、創作」と書かれており、Aさんも、やっと胸のつかえが下りたのではないかと思います。 残念ながら、検察庁(国)の責任は、認められず、その点は残念でなりませんが、証明が極めて難しい取り調べの違法性が認められただけでも、本件訴訟の意義は大きいといえます。
 また、刑事事件と国家賠償の双方で、Aさんが犯罪など行っていないことが認定されたのですから、Aさんの名誉も十分に回復されたと思います。
 Aさんとそのご家族がこの5年半の間に被った心労を思えば、到底、手放しで喜ぶことなどできませんが、名誉回復のお手伝いができたことはほっとしました。
 Aさんには、Aさんの言い分を認めた判決を支えとして、これからの人生を自信をもって生きていってくださればと願っています。

3 この国賠訴訟の意義その2(主に社会に取っての意義)
 また、この国賠訴訟にはもう一つの意義があると思います。
 Aさんは、アスペルガー障害をもっておられ、それが、警察に逆らえず、自白調書を作成されてしまった要因にもなっていました。
 この事件が刑事事件で逆転無罪となり、国家賠償訴訟を提起する時、報道関係者からかなりの取材があり、テレビ、新聞等あちこちで取り上げられました。
 そうした経緯から、冤罪の恐ろしさと共に、このような障害を持つ方が刑事手続きにさらされた場合に非常な不利益を受けうることや、捜査側には格段の配慮が求められることなども、少し社会に広めることができたのであれば、その点でも意義があったと考えています。

4 刑事弁護について思うこと
 もともと私が弁護士を志したのは、「徳島ラヂオ商殺人事件」という有名な冤罪事件を報道で知り、「そんな理不尽なことがこの世にあるのか。」と愕然としたことがきっかけでした。
 そうした点からは、今回の事件は、私の志を実現できたものでもあります。
 こうした冤罪事件について、弁護士の役割が欠かせないことは言うまでもありません。
 しかし、実際にある事件の大半は、本当に犯行をしている事件であり、弁護人としての活動も、殆どはそうした事件についてということになります。それでも、私は、刑事弁護は意義あるものと考えています。
 よく「なぜ悪いことをした人を弁護するの?」という素直な疑問が呈されます。
 それに対する答えは、人によって違うでしょう。私が修習生時代に講演を聴いたある著名な弁護士は、刑事事件を球に捉え、「右と左、光をどちらから当てるかで、見えるものも全く違うのだ。」という説明をされていました。
 私なりに、先の質問に答えるとすれば、単純ですが、「2度と悪いことをしないでほしいから。」という答えになります。2度と悪いことをしないのは、本人の人生のため、本人を案じる家族のため、被害者のため、新しい被害者を作らないため、安心して暮らせる社会のため、全てに必要なことです。
 刑事弁護をそのように捉えていますので、「何でもいいからとにかく刑さえ軽くすればいい。」とは思っていません。「2度としない。」ためには、まず「真剣な振り返りと反省」が必要ですから、本人には、過去の自分から、犯行に至るまでの自分をよく振り返ってもらいます。 勾留中は、時間があるので、自分史を書いてもらったりすることもあります。自分が犯罪に至ってしまった経緯を、表面的にではなく、自分の心と頭で真剣に掘り下げてこそ、やっと「心からの反省」に繋がるのではないでしょうか。
 また、「もう2度と悪いことはしないでほしい。」と思っていても、頭ごなしのお説教など誰も聞きたくないでしょうし、私も、自分がお説教をする立場にあるような人間であるとは思っていません。ただ、よく話を聞き、「どうしたらいいか。」一緒に考えることはできるのではと思っています。そのために、本人と話す時間をたくさんもうけたいと考えています。
 そうした「反省」とセットで、必ずやってもらうことは、「被害者への謝罪」です。裁判対策の、表面的な「ごめんなさい。」ではなく、被害者がどのような痛みを感じ、今も感じているかを真剣に受け止めてほしいのです。それなくて再犯防止はないと信じているからです。
 そのような考えから、私は、弁護士会で、刑事弁護センター運営委員と、犯罪被害者支援委員の双方を兼ねています。相反するもののように思われがちですが、私は、今書きましたように、被害者への真摯な謝罪が、犯人の更生にも必要と考えていますので、相反するものと捉えていません。
 本人の更生に繋がり、被害者の方にもできるだけ納得して頂けるような弁護が私の理想です。
 付言すれば、警察も、検察も、裁判官も、弁護士も、皆立場は違いますが、「犯罪をできるだけ無くし、安心して暮らせるよい社会を作る。」という点では、本来は心は1つであるべきと考えています。

5 今後の課題
 とはいえ、なかなか理想論でいかないのが刑事弁護の世界でもあります。一例をあげると、「どうしてもこの犯人(あるいは犯罪)は許すことができない。」と個人的に思ってしまう犯人の弁護にあたった場合など、悩むケースもあります。これは簡単にコメントできる問題ではないので、これ以上は今回は触れません。
 あとは、最近ようやく取り上げられてきた累犯障害者の問題です。これは、私が今後力をいれていきたいと考えている問題であり、またいずれコラムで皆さんにご報告できればと思います。

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