弁護士の事件簿・コラム

拘置所内での死亡事故に関する損害賠償裁判・和解報告

弁護士 栗山 博史

1 はじめに
 2016年9月のコラムで、横浜拘置支所(以下「拘置所」といいます。)を設置・管理する国を相手に損害賠償を求める裁判を起こしたことをご報告しました。提訴は約3年前の2016年5月でした。
 本年3月、3年弱にわたる審理を経て、国との間で和解が成立しましたので、改めてこの事件をご報告させていただきます。

2 裁判の概要
 拘置所というのは、主として、刑事裁判で起訴された被告人を勾留する施設です。
 Aさん(女性)は、ある事件を犯したとの疑いにより警察に逮捕され、その後、起訴され、警察の留置場から拘置所に移送されたのですが、移送されてから約1ヶ月後、拘置所内の自分の留置室で心肺停止に至り、救急車で病院に搬送されましたが、まもなく亡くなりました。享年39歳でした。
 Aさんは、拘置所に収容された後、統合失調症と診断され(ただし、この診断が正しかったのかどうかは定かではありません。)、抗精神病薬を投与されていました。Aさんの死因は、悪性症候群というものでした。悪性症候群というのは、精神神経用薬(主に抗精神病薬)により引き起こされる副作用で、高熱・発汗、意識のくもり、錐体外路症状(手足の震えや身体のこわばり、言葉の話しづらさやよだれ、食べ物や水分の飲み込みにくさなど)、自律神経症状(頻脈や頻呼吸、血圧の上昇など)などの症状がみられるもので、多くは急激な症状の変化を示し、放置すると重大な転帰(死亡)を辿ることもあるとされています。
 私は、医療問題に詳しい弁護士2名とともに弁護団を結成し、両親の代理人として、Aさんの死亡は避けられなかった事故ではなく、拘置所の医師が、Aさんの身体症状の変化を適切に把握し、投薬をコントロールしていればAさんは命を失うことはなかったはずだ、として、国を相手に損害賠償を求める訴訟を提起したのです。

3 Aさんの身体症状の変化と医師の対応
 では、拘置所の医師の対応のどこに問題があったのでしょうか。その前提として、事実経過を簡潔に示します。

 Aさんは、警察内の留置場にいるときは、精神科医(拘置所の精神科医とは別の医師)の処方にしたがって服薬し、Aさんの状態も落ち着いて、両親もふつうに面会して会話することができていました。
 ところが、拘置所に移送されてから、心身の状態がだんだん悪化してゆきました。
 Aさんは、拘置所に移送されてからまもなく、顔面が蒼白になり、「手が震える」「急に字が書けなくなって困る」「自分の体じゃないみたいに動かない」「髪を結わけない」と訴え始めました。Aさんの様子が悪化してゆくのを見て、診察した拘置所の精神科医は処方薬を変更するのですが、心身の状態はかえって悪化してゆきます。全身に思うように力が入らず、話す、顔を洗う、歯を磨くなどの日常の生活動作をまともにできる状態ではなくなってしまったのです。
 その後も拘置所の精神科医による処方薬の変更は行われますが、Aさんは、目がうつろで、生気を失ってゆきます。
 Aさんの症状は、さらに悪化してゆき、家族との面会時、Aさんの目はうつろで一点に集中し動くことがなく、口はほとんど開きませんでした。Aさんはおむつをはかされていました。
 Aさんの異常な様子に危険を感じた家族や刑事事件の弁護人は、Aさんを外部の病院に入院させたいとの思いから、保釈の請求を行うなどして訴えましたが、検察官の照会に対し、拘置所側は、「Aさんが日常生活を満足に行えないということはない」「普通に会話ができないということはない」などと回答しており、家族らの思いがまともに受け止められることはありませんでした。
 Aさんは拘置所の居室内で心肺停止になり、病院に搬送されますが、治療の甲斐なく、翌日亡くなりました。
 Aさんの身体症状の悪化が見られてから死亡に至るまでの期間は20日間程度でした。

4 専門医の意見
 この事案のような医療問題を争点とする裁判では、第三者的な視点で医師の対応の問題性を指摘してくれる専門医の協力が必要です。本件においても、精神科の協力医に意見書を作成していただくなど助力を得て、私たちは拘置所の精神科医の診療行為の問題性を指摘しました。
 協力医の意見は、悪性症候群は、抗精神病薬による治療中に生じる最も重篤な合併症であるところ、日常生活に影響を及ぼす錐体外路症状が悪化して悪性症候群様の病態に進展することを考慮すれば、悪性症候群の診断がつくかどうかの線引きよりも、悪性症候群の診断が下されるまでの「不全型」あるいは「類縁病態」が考えられる時点で、連続的な病態進行の阻止を考慮して、速やかに治療にあたることが重要である、ということを骨格とするものでした。つまり、悪性症候群の診断ができなくても、重度の錐体外路症状が出現していれば、それが徐々に悪化して悪性症候群に発展してしまうことがあるのだから、早め早めに見極めて、手を打つことが必要だ、というものです。
 本件の経過の中では、先に具体的にお示ししたように、抗精神病薬による副作用とみられる錐体外路症状が、通常の日常生活を営めないほど重篤な状態に至っていますので、精神科医としては、このような重度の錐体外路症状を目の当たりにした場合には、速やかに、原因薬と考えられる抗精神病薬を中止・減量する義務があるのに、拘置所の精神科医は、中止・減量することなく投薬を継続しており問題であるということを明確に指摘しました。このような協力医の意見に対する被告側の医師の意見は説得力に欠けるものでしたので、国は和解の解決に向けて動き出さざるを得なかったのではないかと思います。

5 再発防止に向けて
 和解の内容には、和解金(実質的に損害賠償金と評価できるもの)の支払いのほか、被害者及び両親に対する哀悼の意の表明、そして、再発防止努力条項が盛りこまれました。
 未決拘禁中の被告人は無罪の推定を受けており、逃亡・罪証隠滅の防止のための必要最小限の人権制約が認められるにすぎないはずです。したがって、身体拘束それ自体はやむを得ないとしても、一般市民が社会生活上享受すべき水準の医師による治療を受ける機会が不当に制限される理由はありません。適切な医療行為を受ける利益は最大限尊重されなければならないと思います。
 本件において、もしAさんが通常の社会生活を営んでいたら、Aさんは医療機関を受診し、もっと早く入院して治療を施されていたのではないかと思われます。国は、身体拘束という権力を行使している反面、被拘禁者の生命・身体の安全を確保するという重大な責務を負っていることを自覚し、現在の運用の改善を図らなければなりません。

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