弁護士の事件簿・コラム

不動産賃貸借契約終了時のトラブルについて

弁護士 堀川 なつき

1 はじめに
 今回から,コラムを書くことになりました。
 最近,引越業者が作業をしているところを見かける機会が多かったので,今回は借家からの転居の際(賃貸借契約の終了時)に起こり得るトラブルについて書きたいと思います。

 賃貸借契約の終了時によくトラブルになるのが,賃借人の原状回復義務の範囲の問題です。
 賃借人が負う原状回復義務については賃貸借契約書に記載されていますので,誰しも契約時に一度は原状回復義務に関する規定を確認しているはずです。
 しかしながら,契約書に記載された賃借人の原状回復義務について法律上負うべき義務なのかよくわからないままに契約を締結してしまい,退去後に想定外の費用を請求され(実際には,敷金から控除され)困惑したという方もいらっしゃるかと思います。
 法律上賃借人が負うべき原状回復義務の範囲や,原状回復義務を賃借人が負う場合にどの程度の負担があるのかについては,民法の他,国土交通省が一般的な指針として公表している「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」(以下,「ガイドライン」と言います。)が民法上の解釈や裁判例を踏まえて作成されたものであり,参考になります。これから, これらについて簡単にご説明したいと思います。

2 賃借人が負うべき原状回復義務について
 ここで改めて原状回復義務という言葉の意味をご説明すると,賃貸借契約が終了した際に,賃借人が賃貸人に対して目的物を原状に戻して返還する義務のことを言います。
 原状回復義務の範囲について改正前の民法では明文化されていませんでしたが,2020年4月1日から施行されている改正法の621条で明文化されました。
 民法621条によれば,賃借人が負担すべき原状回復義務は,
ア.賃借物を受け取った後にこれに生じた損傷うち,
イ.通常の使用及び収益によって生じた損耗並びに経年変化を除く,
ウ.賃借人の責めに帰すべき事由による損傷を言います。
 つまり,賃借人は,①常識的な生活をしていても生じる損耗(通常損耗)や経年劣化 については原状回復義務 を負いませんが,②故意や不注意によって生じた損耗(通常損耗以外)については原状回復義務 を負うことになります。
 この理由は,①については,賃貸人が賃借人に目的物を使用させることの対価として賃料を得るという賃貸借契約の性質上,目的物が時間の経過や賃借人の常識的な使用により劣化していくというのは当然に予定されており,経年劣化などにより目的物の価値が減少したとしても,その補修にかかる費用は賃料の中に含まれる形で賃貸人が受け取っていると考えられるためです。
 しかしながら,民法621条は任意規定であり,契約当事者がこの条文と異なる合意をした場合には合意が有効になります。
 そのため,①についても特約によって賃借人の義務とすることも可能であり,その場合賃借人は特約通りの原状回復をしなければなりません。
 もっとも,特約の有効性を争うことができる場合もあります。
 最高裁判所の判例によれば,「建物の賃借人にその賃貸借において生ずる通常損耗についての原状回復義務を負わせるのは,賃借人に予期しない特別の負担を課すことになるから,賃借人に同義務が認められるためには,少なくとも,賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が賃貸借契約の条項自体に具体的に明記されているか,仮に賃貸借契約書では明らかではない場合には,賃貸人が口頭により説明し,賃借人がその旨を明確に認識し,それを合意の内容としたものと認められるなど,その旨の特約が明確に合意されていることが必要である。」と判断しています(最判平成17年12月16日判時1921号61頁)。
 ガイドラインにおいても,特約が有効であるためには,
①特約の必要性があり,かつ暴利的でないなどの客観的,合理的理由が存在すること
②賃借人が特約によって通常の原状回復義務を超えた修繕等の義務を負うことについて認識していること
③賃借人が特約による義務負担の意思表示をしていること
などの要件を満たす必要があるとも記載されています。
 したがって,この判例やガイドラインによれば,賃借人が負担することになる通常損耗の範囲が具体的に明確になっていない場合や,特約により賃借人に課される原状回復義務があまりに重い場合などには,特約の有効性を否定できる可能性があります。
 もっとも,有効性が否定されない限り,賃借人は特約で定めた通りの原状回復義務を負わなければならないことは,初めにお伝えした通りです。
 なお,改正民法が適用されるのは,改正法が施行された2020年4月1日以降に締結された契約についてですが,改正前においても判例やガイドラインにより賃借人の原状回復義務については同様に考えられていましたので,これまでにご説明した内容は,2020年4月1日よりも前に締結された賃貸借契約についてもあてはまります。

3 賃借人が原状回復義務を負う場合の,費用の負担割合について
 次に,賃借人が原状回復義務を負う場合の費用負担の考え方についてご説明します。
 上述の通り,賃借人の善管注意義務違反による損耗については,賃借人が原状回復義務を負い,補修に要した費用を負担することになります。
 しかしながら,この場合も,補修にかかった費用全てを当然に賃借人が負担するということにはなりません。
 なぜなら,賃借人の故意や不注意で建物の設備が壊れた場合でもその設備には当然経年劣化や通常損耗も生じているはずあり,経年劣化や通常損耗分の費用負担は,賃料に含まれる形で既に賃借人が支払っているものと考えられることから,さらに補修にかかった費用 の全額を負担すると経年劣化分の補修費用を二重で支払うことになるためです。
 そのため,建物や設備の経過年数を考慮し,年数が多ければ多いほど賃借人の負担割合を減少させることになっています(以下,ガイドライン12頁の図3を引用します)。
 もっとも,新築ではない場合,個々の設備の交換・補修時期がわからないこともあるので,経過年数の代わりに入居者の入居年数を基準として賃借人の費用負担割合を判断します。



 ここで注意が必要なのは,耐用年数が経過した後でも賃借人に補修費用の負担が生じる場合があることです。
 耐用年数を超えた場合,図3からは賃借人の負担割合が0であるようにも見えますが,耐用年数を超えていても賃貸住宅の設備として使用可能な場合もあるので,賃借人の故意過失によって使用不能な状態にしてしまった場合には,使用可能な状況に戻すよう補修する義務が生じます。(例えば,クロスの耐用年数は6年ですが,入居後6年が経過していたとしても賃借人の落書きなどによってクロスが汚れている場合には,落書きを消すためにかかる費用は賃借人の負担となります。)

 また,賃借人の負担割合は,入居時の建物や設備の状態によっても変化します。
 新築や設備交換の直後であれば,入居時(経過年数0)の負担割合は100パーセントとなりますが,そうでない場合には,個々の状況を勘案し入居時の負担割合を100パーセントから引き下げることになります。(以下,ガイドライン13頁の図4を引用します。)



 建物のうち,畳床やカーペット,クッションフロア,壁(クロス),エアコンなどの設備では,このように経過年数を考慮して賃借人の負担割合を検討します。
 もっとも,フローリング(ただし,部分補修する場合に限ります。)や,障子紙,畳表など建物の部位によっては,ガイドライン上は経過年数を考慮しないとされている箇所もあります。
 そのため,賃借人が補修義務を負う場合の負担割合の考え方は,その設備によってそれぞれです。

4 最後に
 今回は,賃借人の原状回復義務についての一般的な考え方を簡単にご説明しましたが,退去時の建物や設備の状況は様々ですので悩まれることが多いと思います。
 賃貸借契約の締結時や解約時に悩まれることがございましたら,一度弁護士に相談されることをおすすめします。

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